社会を動かす原動力!「お節介」というマインドを見直そう

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こんにちは、バキ子です。 
 
みなさんは「お節介」ですか?
たぶん違いますよね。私も違います。
 
他人のことにガンガン首を突っ込んで、
「ああしたほうがいい」「是非こうしなさい」
だなんて、今時なかなか言えませんよね?
 
思うところがあったとしても、余計なお世話なんじゃないか、
と思ってつい言葉を呑んでしまいます。
 
私なんかにそんなこと言われたくないだろうし、
アドバイスが間違ってたら申し訳ないし・・・・
 
とかしょーもないこと考えてしまうわけです。
 
 
 
 
 真正の「お節介」達はそんなしょぼいこと気にしません。
 
 
 
「私の言う通りにしてれば間違いないから!絶対お得だから!」
 
「ねえ見てこの写真。この人、ヨウコちゃんにどうかと思ってさぁ~
 相手いないんでしょ?」
 
「あのパーマ屋さんいいんだよぉ~あんたさ紹介すっから、いってかい」
 
「あんたさオサレなセーターもってきたから使わい!」
 
 
 
相手のTPOなんてどこ吹く風。
 
 
デリカシー?なにそれ?
 
 
って感じです。
 
自分の価値観を疑うことなく、絶対この人のためになると信じる強い心。
 
自分の主張を捻じ込む大きな声、達者な弁舌、押しの強さ・・・・
 
 
 
やり手営業マンみたいじゃないですか。
 
 
 
でも、この頃はこの「お節介」達をあまり見ないなぁ。
 
 
ちょっとメイワク・・・・って思ってたお節介おじさん/おばさん達ですが、
最近、私は彼/彼女達が懐かしいんです。
 
 
「お節介」って、実はスゴイことだったんじゃないか・・・・
近頃そんな風に感じていたので記事にしてみます。
 
 
 

「お節介の国」ニッポン

かつて、この国には真の「お節介」と呼ばれる人たちが存在していました。

「小さな親切、大きなお世話」という言葉が流行った時代がありましたが、
それだけ「大きなお世話」をはたらく人が多かった、ということですね。
 
私の親戚のおばちゃん・おじちゃんにもいわゆる「お節介」気質な方々がいらっしゃいましたし、わりとそれが普通でした。
 
 
あの人たちの共通点は、
 
とにかくよくしゃべること。
 
 
なんか凄いな、パワフルだな、という印象がはっきり残っています。
 
パワートークとお節介を受けとる両親などは面倒だったかもしれませんけど。
 
 
 

「お節介」は悪いことだろうか?

「お節介」と聞けば、私たちはなんとなくマイナスなイメージを持ちがちです。
 
けれど、動機はどうあれ、
相手に何かを働きかける、コミットする、発信する、
という行為は、それなりに的を突いていればけして悪いことではないと私は思うのです。
 
そのへんの匙具合が昭和の「お節介」には欠けていたんでしょうけど、
でもまあ、善意で接してくれていたと思うと「ありがたいなぁ」とも思います。
 
 
あの人達を見ていると「全ての行為は善である」という言葉が浮かんできます。
 
 
彼らにとって誰かの世話を焼くのは、
一種の宗教的行為、功徳のようなものなのかもしれませんね。
 
 (;^ω^)
 
 
 

「お節介」は絶滅してしまうのか

私たちにはもうなれないでしょうね、かつての「お節介」には。
 
そもそも何がその人にとってベストかなんて絶対わからないし、
自分が勧めた道が100パーセント正しいだなんてとても言えない。
 
情報の不確かな時代、未来の不確かな時代に現役で生きている私たちの肌感覚がそうさせているんだと思います。
 
自分自身の人生にも自信が持てないのに、まして他人に何が言えるだろう、という感じ。
 
確かなものなんて無い、という醒めた認識が他人へコミットしたくない、
という気分を助長させてしまうんでしょうか。
 
 
 
私:まあアレだね、時代が悪いんだよね ( ´з`)
 
夫:オメー誰だよ? ( ゚Д゚)
 
 
 
その人に良かれと思って余計なことをして、
 
かえって迷惑になる⇒自分が恥をかく⇒損をする⇒だったらやらない!
 
というゆがんだリスク管理的な考え方も、
私達から「お節介」を遠ざけた理由じゃないかと思います。
 
傷つくことを恐れて他人と距離を置きだした私たちは、
もう「お節介おばさん」にはなれません。
 
私の母の世代(60代)でも既にそういう人はまれですから、
その下の世代はますますいないんでしょうね・・・・
 
真の「お節介」を実践している強者というのは、もはや絶滅危惧種である、というのが私の認識です。
 
 

見直したい「お節介」という文化

 
だからこそ、私は見直したいんですよね、この「お節介」という文化を。
 
向こう三軒両隣り、じゃないですけど、他人と広く浅くコミットして、常に互いを気にかけるライフスタイルというのは、もしかすると今の孤立社会の唯一の処方箋なんじゃないかと思ったりするのです。
 
 
このドキュメンタリーがずごく面白かった!
孤独死ゼロを続けてきた大山団地の自治会ノウハウをチラ見できます。
 
 
 
 こういうゆるいネットワーク、よそ様とのかかわり方は、
行政システムでは絶対にカバーできないし、
ご近所の力で強化できればより良い社会を目指せそうな気がします。
 
「地域ぐるみのお節介」とでも呼ぶべき思想ですね。
 
ただ、これは「お節介」する側に一定の知性と良識、いわば教養が求められます。
 
これまでのように、押し売り的な「お節介」は
 
もう私達の社会には受け入れられませんからね。
 
今後はさらに進化した「お節介」像が模索されるべきだろうな、と思います。
 

ブログで「お節介」を目指そうと思う

これは飛躍し過ぎかもしれませんが、
私はブログメディア、特に個人ブログというものは、
言ってみれば現代版の「お節介」の一形態なんじゃないかと考えています。
 
 
かつて世間をリードし、町内を活性化させ、家から家へと闊歩していた
「お節介」なおじさん・おばさんが消えていった代わりに、
ブロガーたちは日夜さまざまな「激励」「説得」「煽り」「啓蒙」「勧誘」
繰り返し世間に発信し続けています。
 
 
 
「こうしたほうがいいよ」
 
「こういう考え方もあるよ」
 
「え!まだそんなことしてんの?」
 
「こんな便利グッズあるよ!」
 
「あの観光地こんなによかったぜ!」
 
 
 
手を変え品を変え、ブロガーは「お節介」を続けます。
 
直接顔を合わせないから、思い切ったことが言える(書ける)というネットの特性が
我々の「お節介」に拍車をかけています。
 
 
 
正直ウザい、という人もいるでしょうね (;^ω^)
 
 
 
でも、こういう人種も世間には絶対必要。でないと文化は足を止めてしまいます。
 
 
リアル「お節介」が減ったしまった世界を、
ブロガーはうまく埋めているのではないかと思うのです。
 
 
時代はどんどん進んで手法は変わっていくけれど、
世の「お節介」たちが世界を動かしていく、
という原理事態は変わっていないのではないかと思います。
 
より洗練された「お節介」であれば、ウザがられることも少ないでしょうしね。
 
私もブログを書き始めたからには、自分のことだけでなく、
少しでも読む人の役に立つこと、楽しんでもらえるものを目指してみようと思います。
 
たとえそれが盛大な「お節介」だとしてもね!
 
 
「この人、押しつけがましいブログ書くよね、
 なんか親戚のおばちゃんみたい (; ^ω^)」
 
 
けっきょくブロガーって、そう思われたら本望なんじゃないのかな?
 
そうなれたらなんだか素敵だな、と思う今日この頃です。
 



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